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<title>Thickness</title>
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<title>しゅーろんこーがい</title>
<description> 『現代建築の空間と距離　ー制限領域がもたらす空間への影響ー』■１　序　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　  1-1．研究の動機・目的　建築行為とは、どこまでも広がる外部空間に、内部空間という制限を与えることであると言える。制限を与えられた都市空間では様々な人が自分の居場所を見つけ、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。これは、無限の広がりをもつ都市空間に移動や視覚的な制限が与えられることで、様々
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<![CDATA[ 『現代建築の空間と距離　ー制限領域がもたらす空間への影響ー』<br /><br />■１　序　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　  <br />1-1．研究の動機・目的<br />　建築行為とは、どこまでも広がる外部空間に、内部空間という制限を与えることであると言える。制限を与えられた都市空間では様々な人が自分の居場所を見つけ、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。これは、無限の広がりをもつ都市空間に移動や視覚的な制限が与えられることで、様々な人の居場所が生まれているためであると考えられる。そして、こういった都市体験と似た経験を建築内ですることがある。それは、限られた内部空間に移動や視覚上の制限が与えられ、一空間内に近さや遠さといった性質の異なる距離が同時に存在していることに原因があると考えられ、その空間を実際以上に広く感じさせていると言えないだろうか。<br />　本論では筆者の体験を元に、何らかの制限によって、異なる距離が存在していると考えられる建築家の作品を分析することで、その体験がどのように起こり、建築空間にどういった質をもたらしているのかを明らかにすることを目的とする。<br />　なお、建築空間における距離や距離感についての研究は、建築計画学及び人間環境工学分野での空間認知に関する研究は数多く行われている。しかし、こういった観点による実際の建築家の作品の研究は確認できなかった。<br />1-2．本論の構成<br />　本論では、まず２章で本論における「距離」「制限領域」等の概念を明らかにし、それを元に分析方法を導く。３章で個々の事例分析・考察を行い、それらを比較することで上記の体験の原因を明らかにし、そこで得られた知見を元に、４章で具体的・横断的な考察を行う。<br /><br />■２　用語の定義と分析方法　　　　　　　　　　　　  <br />2-1．「距離」<br />　距離については、イーフー・トゥアンによれば、－「距離」は、近づきやすさの度合いを暗示し、さらに関心の度合をも暗示する。人間は他者に関心をもち、自分が生きていくうえで重要な対象に関心をもつ。－※1という。距離とは「近づきやすさの度合いを示すもの」であるため、距離と制限は密接な関係をもち、空間体験に多大な影響を与えると考えられる。本論においては、曖昧な表現を避けるため、ある二空間を結ぶ視覚的な距離や移動上の距離といった図面に現れる物理的な長さを「距離」とする。<br />2-2．「制限領域」と「空間のバリア」<br />　建築空間およびその周辺において、入るのに何らかの物理的・心理的な制限や障害がある領域を「制限領域」とし、それをもたらす要因を「空間のバリア」とする。それは空間同士の相対的な関係性により、近づきやすさの度合いを変化させるものである。それ故、空間のバリアには二つのタイプが考えられる。それは(1)境界主導型と(2)領域主導型である。<br />(1)領域主導型：主としてプログラムによるもの。<br />レストランや美術館の展示エリアなどの有料エリア。住宅のテラスなどの外部空間もこれに含まれる。<br />(2)境界主導型：主として物的な建築構成要素によるもの。<br />２つの空間自体にバリアの差はないが、その境界に段差があるなど、いわゆる「バリアフリー」で用いられるバリアの概念である。<br />　制限領域を示す際、前提として、見通せることを条件とする。そもそも通常の壁こそが最も制限の強い要素であり、そこに開口を穿つことで、通行が可能となる。その通行可能な状態に空間のバリアのかかったものを選定する。<br />2-3．分析手順<br />　大きく二つの観点から分析を行う。それは、制限領域によってもたらされる経路、及び制限領域とそれに隣接する空間の見え方である。それは、バリアのかかった空間では移動経路が変化するためであり、それによって視覚体験がどう変化しているのかを明らかにするためである。<br />　分析に当たっては、まず、それぞれの事例において空間のバリアと制限領域と、その概要を示す（観察1）。次に、示された制限領域によってもたらされる視覚的な経路と移動上の経路を分析し、それがもたらす視覚体験も併せて分析する（観察2）。<br /><br />■３　事例分析　　　　　　　　　　　　　　　　　　  <br />3-1．分析対象<br />　分析対象は、自らの体験から空間のバリアによって１章で述べた現象が起こっていると感じられた「金沢21世紀美術館(以下:金沢)」、「SPIRAL」、「八ヶ岳の別荘(以下:八ヶ岳)」及び、図面、写真から同様の現象が起きていると思われたもの、計7事例を選定した。梗概では「金沢」、「SPIRAL」、「八ヶ岳」、「梅林の住宅(以下:梅林)」、「桜台の住宅(以下:桜台)」を取り扱う。分析は、図面、写真を元に行う。<br />3-2．分析<br />｜事例1｜金沢21世紀美術館｜SANAA｜<br />観察1：この事例は、大きな円の中に配置された様々な大きさの箱の間を自由な経路で巡ることができるように見える。しかし実際には有料ゾーンと無料ゾーンが透明なアクリルの扉によって分けられ、出入り口が規定されていた。筆者が訪れたときの有料展示ゾーン※2は図1の通りであり、ここで言う有料展示ゾーンが制限領域である。また、この事例には四つの光庭があり、光庭1は無料エリアで、且つ入ることができるが、他の三つの光庭は入ることが出来ない。それ故、バリアの強さの異なるエリアが共存しているのである。<br />観察2：無料エリアと有料エリアの境界は透明なアクリルの扉で仕切られているだけなので、二領域は視覚的に連続している。縦横通路が貫通していることで、有料エリアを介した無料エリア同士の視線交換可能な場所は四組に及ぶ。また、光庭2,3が有料エリアの境界面の通行不可能な部分に寄せられていることで、光庭の周りを一周できず、遠回りを強いられる。従って、同一平面の内部空間でありながら、視覚的な距離と移動上の距離にギャップがある。これによって、体験が一度切れ、同じ光庭でも異なる見え方を実現している。経路空間の体験は、曲がる度に視線が抜け、図2のような空間の見え方が支配的である。<br /><br />｜事例2｜SPIRAL｜槇文彦｜<br />観察1：この事例では、エントランスホール(以下、エントランス)からアトリウムまで視線が抜け、通り抜けられそうに見えるが、間にカフェが介在することで、通り抜けることができない。従って、カフェが空間のバリアとなる領域主導型の事例である。「金沢」と違い、扉で境界を区切っておらず、段差、列柱、仕上げの差などによって制限領域が示されている。<br />観察2：経路に着目すると、「金沢」と同様に、視覚的な距離と移動上の距離が異なり、移動上の最短経路はギャラリーを通るものとなる。なお、エスプラナードと二階のショップを通り、スロープで下りてくる経路もある。制限領域の境界面を見てみると、カフェにはエントランス側の柱の上部にまぐさが渡されており、柱、段差の見付けとともにエントランスに対して白いフレームを形成している(図3)。アトリウム・ギャラリー側の境界面にはフレームはない。このフレームによってエントランスからアトリウムを見た場合と、逆から見た場合、それにギャラリーを歩くときの空間の見え方を示したものが図4である。フレームによってエントランスからカフェの天井面が見えにくくなっているため、エントランスからアトリウムまでの距離が測りづらくなっている。制限領域によって定められた経路の折れ曲がる部分において、フレームで奥の空間の見え方をコントロールしていると言える。<br /><br />｜事例3｜八ヶ岳の別荘｜千葉学｜<br />観察1：この事例には、二箇所の制限領域がある。階段のある吹き抜け(以下:吹抜)と、一階がテラスの光庭である。二階の吹抜に面する壁には窓が穿たれ、光庭にはフルハイトの透明ガラスが嵌められている。また、一階の客室1,2はテラスに面しており、相互の行き来には屋根のない外部を通らなければならず、テラスも空間のバリアとして作用する。<br />観察2：この事例では二階の制限領域には床がないため、純粋に視線のやり取りのみが可能である。そのため、二階の部屋間の移動には外周の回廊を通らねばならない。また、玄関から客室1へは、雨が降っているときに濡れずにアクセスするには一度二階へ上がり、回廊を通ってまた下りなければならない。つまり、全体を巡る経路がテラスというバリアを介した立体ループ状になっており、客室1は内部でつながっていながらも、はなれのような部屋であると言える。<br />　次に、制限領域を介した空間の見え方に着目すると、光庭部は全面ガラスなので外部を介して内部空間相互がよく見える。一方吹抜に面した壁面では窓が連なっており、吹抜を介した二重のフレームが風景を切り取っている。その窓から見える風景に注目すると、リビングから見たとき、回廊の天井と床面は見えず、フルハイトの壁面と開口のみが目に入る。逆に回廊からリビングを見ると、リビングの天井が高いために天井が見えず、床と壁面も窓に切り取られた奥の方しか見えない。吹抜というバリアに窓が連なることで、一方の窓に近づけなくなり、「SPIRAL」のように距離を捉え難くしているのである。<br /><br />｜事例4｜梅林の住宅｜妹島和世｜<br />観察1：この事例では、二階の寝室と机室に出入りするには階段を一段上り下りしなければならず、境界主導のバリアがかかっている。また、三階のはなれと倉庫に行くには「八ヶ岳」と同様にテラスを通って行く必要があり、領域主導のバリアがかかる。<br />観察2：この事例はこれまでの事例と違い、近道と遠回りといった経路の選択肢はなく、一つしかない。それ故、はなれと倉庫は、通常の住宅で庭に設置する状況が、三階において実現していると言える。また、それぞれの入口にバリアがかかった二階の寝室と机室は何も嵌っていない大きな窓(900mm□)によって繋がっている。通常の経路で二室を行き来するには遠回りをし、更に階段を二度上り下りしなければならないが、二室間の大きな窓を乗り越えれば相互に行き来することができる。すなわち、二室の入口にいずれも段差というバリアがかかっていることと、二室間の窓が大きいことにより、通常移動上のバリアとなる窓が、出入り口として使われ易い状況を生んでいると言える。<br />　さて、この事例ではバリアの有無に関わらず、鉄板に穿たれた開口を介して他の空間が見えるようになっており、「SPIRAL」や「八ヶ岳」のときと同様に、窓の向こうの部屋の隅角部が見えにくく、奥行きをつかみづらい(図11)。<br /><br />｜事例５｜桜台の住宅｜長谷川豪｜<br />観察1：この事例の制限領域は中央の吹き抜けである。通常の吹き抜けと違うところは下階の床が全てテーブルになっている点である。テーブルの周りに個室が配されているため、個室にアクセスするのにテーブルを上り下りしなければならないことがある。また、二階は吹き抜けに窓が開けられ、その周りを一回りできる平面になっている。<br />観察2：子供室1,2の間にクローゼットがあり、子供室1,2の間でテーブル経由の近道と、同一平面上の遠回り、二つの経路が存在している。しかし遠回り経路は書斎と主寝室を通らなければならないため、「梅林」の二階の大きな窓の例のように、テーブルに上るというバリアが相対的に弱くなっていると考えられる。また、一階の経路はテーブル経由の二つのループが組み合わさる。更に階段が二つあることから、「SPIRAL」や「八ヶ岳」のような立体ループの経路もある。<br />　次に空間の見え方に着目すると、「八ヶ岳」や「梅林」が窓を直列に配していたのに対し、この事例では隅部に出入り口も兼ねる大きな窓が開けられている。吹き抜け部以外の一階の天井高は2,100mm程度で一定なので窓を介して壁と壁、壁と天井の取り合いが見え、奥行きが捉え難いということはない。以上の空間の見え方を図12にまとめる。<br />3-3．分析結果<br />　以上の分析結果をまとめる。<br />1)視覚と移動の距離の違いは、全ての事例に少なからず見出すことができ、体験が一度切れることで同じ場所に対して不連続な視点を生み出していた。<br />2)バリアが原因で接近が困難な領域に面した開口や、その周辺空間の作り方によって、空間の奥の方までの距離を捉え難くする視点を有しているものがあった。<br />3)ループ状の経路であっても制限領域を通ることで、近づきづらい、離れた場所を作っているものが見出せた。<br />4)通常ならバリアとなる部分が、他のバリア部分との関係によって、バリアとして捉え難くなる状況が存在した。<br />　分析結果1,2,3より、バリアによってもたらされる経路から人の居場所や視点を想定し、空間の見せ方、感じ方を変化させる手法を導き出すことができると考えられる。また、分析結果4から、複数の異なるバリアを共存させることで、制限領域自体の意味を再構築し得ることが分かる。<br /><br />■４　考察　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　  <br />4-1.フレームの考察：距離の知覚<br />　３章の分析結果のうち、分析結果2に関しては、制限領域の枠を越え、空間の見え方の一側面として広く展開可能であると考えられるため、考察を行う。<br />　各事例の空間の見え方の分析<br />から、空間の隅角部を隠した視点を設定することで奥行きを知覚しづらい体験をもたらすものがあった。この経験を基に、空間の見え方を二つのタイプにモデル化したものが図14である。各事例のパースを見て明らかなように、「金沢」ではaの空間、「梅林」ではbの空間が支配的である。「八ヶ岳」ではa,bが分かれ、「桜台」では共存し、「SPIRAL」ではaが支配的でありながら、エントランスからの視点において、bに近づいていると言える。このように図14は、３章の分析から、空間の奥行きの知覚のし易さを測る指標の一つになると考えられるのである。戸沼幸市によれば、－人間は目を通して自分が今立っている位置から外界を広がりとして意識（知覚）し、その広がりを自分に近いものから遠いものへの順序として知覚するのが空間の基本認識過程である－※3という。近いものから遠いものの間に何らかの視覚的な障害が介在し、手前が見えず奥が見えることで、距離が捉え難くなるのである。<br />｜事例6｜神奈川工科大学KAIT工房｜石上純也｜<br />　この事例では、長方形断面の様々な太さの柱が305本、ランダムに立っている。写真(図15)を見て明らかなように、上記のa,bどちらにも当てはまらない空間である。柱の断面は長方形で、それぞれ向きが違うので、どこにいても方向性を感じない。bタイプが近いものを隠して遠いものを見せていたのに対し、この事例では近い柱と遠い柱の区別がつきにくくなっており、遠近感を掴みづらくなっている。これは空間の見え方そのものの新しい展開であると考えられる。<br />4-2.経路の考察：ツリーとループ<br />　３章では、制限領域が経路にもたらす影響を分析するため、ある一空間に向かう経路に選択性があることが事例選定条件の一つであった。逆に、選択性のない経路というのは、ループ状の経路がない、即ち経路がツリー状になっているということである。ツリー状の経路をもつ建築では、何らかの制限領域(展示室や飲食店など)の設置が必要になったとき、アクセシビリティーの問題から、経路の端の部屋、もしくは端の部屋を含む部屋群にそういった領域を配置することが多くなる。一方、ループ状の経路は制限領域を挿入しても、遠回り経路が残っているため、上記のような配置上の制約も少ないと考えられる。建築の部分的なリノベーションにも対応しやすいであろうし、ツリー状の経路よりも柔軟であると言える。建築そのものがもつ経路がループかツリーかによって、制限領域への対応のし易さが異なるのである。<br />4-3．制限領域の考察：空間の多面性<br />　以上の考察を踏まえると、制限領域はループ状の経路と組み合わさることで、連続的な空間体験をいったん止め、空間に表と裏、こちら側とあちら側といった複数の顔を生み出すと言える。こういった制限領域の質は、都市空間においてはケヴィン・リンチの指摘する「エッジ」との類似性が指摘できると考えられる。リンチは、－多くのエッジが、切り離す障害というよりも結びつける縫い目となっている－※4と指摘する。<br />　体験が一度切れるということは、その場所を空間の起点や終着点と捉えることができるであろう。これは、いわゆる流動的な空間にはもたらされない空間の質であり、一空間の見え方を多面的にしていると言える。取り上げた五事例は、開口を見ながら遠回りすることで、それぞれ異なる風景を見せている。こういった視点は、どんな建築の設計においても有効であると考えられる。<br /><br />■５　結　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　  <br />　制限領域というエッジを建築空間に導入することによって、一定範囲内に複数の顔と距離をもつ空間を実現していることが明らかになった。空間相互の近さと遠さを同時に獲得できるということは様々な人の集まり方、行為の許容度が大きいということである。そこでは広さを感じるといった効果以上に、小さな都市体験が介在していると言えるのではないだろうか。 ]]>
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<dc:subject>濃い口</dc:subject>
<dc:date>2009-02-03T00:30:45+09:00</dc:date>
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<title>建築の境界について</title>
<description> 修論のテーマを決め兼ねている。地形やら動的体験やら色々考えてきたけど、どうやら境界について最も興味があるようだと、最近気づく。僕の修論のモチベーションの一つに、富弘美術館と谷口さんの美術館の体験がある。富弘ではプランを見ててワクワクするような体験がそこにあるんだろう、と思って行ったら、天高の同じ空間がズルズルと続き、体験に抑揚がなく、結果的に均質空間になっていると思った。一方谷口さんの美術館はキュ
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<![CDATA[ 修論のテーマを決め兼ねている。地形やら動的体験やら色々考えてきたけど、どうやら境界について最も興味があるようだと、最近気づく。<br /><br />僕の修論のモチベーションの一つに、富弘美術館と谷口さんの美術館の体験がある。富弘ではプランを見ててワクワクするような体験がそこにあるんだろう、と思って行ったら、天高の同じ空間がズルズルと続き、体験に抑揚がなく、結果的に均質空間になっていると思った。<br /><br />一方谷口さんの美術館はキュービックで綺麗にまとめられていて、静謐な空間なんだけど、その内部体験は抑揚があって、喜びに満ちあふれている。ちなみに僕は豊田市美術館、上野の法隆寺宝物館、丸亀源一郎美術館、東山魁夷せとうち美術館を体験済み。<br /><br />それは、レベル差、採光、吹き抜け、ヴィスタ、天井高など、様々なパラメーターの操作によって成り立っています。でも実はこんなに簡単に説明出来てしまっては何も面白くなくって、結局、純粋モダニズム美学万歳！になってしまう恐れがあります。<br /><br />さて、どうしよう。。。<br /><br />そこでもう一歩、踏み込んでみる。言い換えれば、いったん抽象化してみる。上に書いたモダニズムのボキャブラリーは、結局、空間の境界をどう操作しているのか、という手法であると考える。すると、現代建築空間の境界の中で、それでは説明出来ない境界であったり、同じボキャブラリーでも、使い方が特殊なものがあったりするのではないか？<br /><br />そういった目で、近現代建築を見直してみると、近代建築の中にも、現代的な境界を作っている建築があったり、全く説明のつかない境界をもった現代建築があぶり出されるはずである。そしてそこから、新たな境界のつくりかた、の設計手法を見いだせる。<br /><br /><br />今最も面白いと思ってる事例は、増沢洵「コアのあるH氏のすまい」(1952)。この作品の境界の作り方は、かなり特殊だ。ミース「ファンズワース邸」(1950)と比較してみると、分かり易い。<br /><br />モダニズムのボキャブラリーの中に、コアによる空間の分節、というのがあり、この２作品はそれに依っている。しかし、コアHの方は、まず、家の両側に個室があり、そこは完全に独立した部屋である。コアには居間側にキッチン、その裏にトイレが集約されているが、コアは天井に近い部分にはガラスがはまり、構造的に意味はなく、ただ囲いを作るのみである。ここから読み取れるのは、コアによって表と裏を分節しているワケでなく、客を呼んだとき、客はコアの回りを歩き回るハメになる。すなわち、行為が人を選んでいない、人と行為の関係がフラットであるということ。それは、完全な個室の存在によって成立する、裏表のない空間。なんだかとても現代的な様相を呈していると感じるのは僕だけではないだろう。<br /><br />一方ファンズワースではコアの表側にリビング・ダイニング、トイレ、裏側にはキッチン、トイレ、寝室が配置され、トイレは住民用と客用と二つあり、ワンルームの中の裏表の作り方が明快である。<br /><br />この、境界による表と裏の作り方、に着目すると、例えば、篠原一男「白の家」(1966)には、有名な写真の表の部屋と、寝室の裏の部屋がある。ここまではよく知られているが、その面積比に着目すると、約2:1。全体の1/3は裏の空間に裂かれている。これの意味するところは、モノが増えても表の空間を生かしておくために、裏の空間に大きなスペースをとった、と考えられるだろう。<br /><br />今でこそ、大良さんや塚本さん、妹島さんの「梅林の家」のようにモノの扱い方をよく考えた建築が増えているが、実は篠原一男はその辺りを60年代に既に心得ていた。と言えまいか？<br /><br />近現代建築の境界を見ていくことで、人、モノ、空間の質、領域の捉え方、など、様々な切り口での分析が出来るはずである。<br /><br /><br />さ、この企画の命運やいかに！？<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>濃い口</dc:subject>
<dc:date>2008-11-17T01:51:56+09:00</dc:date>
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<title>環境について</title>
<description> 考えてますか？こう見えて僕は考えてます。が、世間の認識にはモノ申したいのです。今日、何気なく古本屋で買った「switch7月号」宮崎あおいちゃんが石上さんの神奈川工大で撮影してるというジャケ買い。白い工房に緑の植栽、あおいちゃんの服は青と赤で映えてます。そこまでは良かったが、誌面は環境論者の構え。坂本龍一がCO2のオフセットの話をしてたり、エコについて書いた品川ブログがそのまま掲載されていたり。その品川ブロ
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<![CDATA[ 考えてますか？<br />こう見えて僕は考えてます。<br />が、世間の認識にはモノ申したいのです。<br /><br />今日、何気なく古本屋で買った「switch7月号」<br />宮崎あおいちゃんが石上さんの神奈川工大で撮影してるというジャケ買い。<br />白い工房に緑の植栽、あおいちゃんの服は青と赤で映えてます。<br /><br />そこまでは良かったが、誌面は環境論者の構え。<br />坂本龍一がCO2のオフセットの話をしてたり、<br />エコについて書いた品川ブログがそのまま掲載されていたり。<br /><br />その品川ブログより一部抜粋、<br />「…家を建てるのであればソーラーパワーにすること、<br />車を買い換えるのであればハイブリッド車にすること…」<br />こんな感じでつづられています。<br /><br />いかにも正しい。<br />こういう概念をポリティカル・コレクトネス(PC)と言います。<br />PCのように、いかにも正しい、分かり易い知識はマスコミが流行らせます。<br />ソーラーパワーの家も流行ってます。<br /><br />建築学生が憧れる建築家でソーラーパワーを使う人はほとんどいません。<br />PCという安易な選択に逃げては他との差別化が図れないからです。<br />そして多くのハウスメーカーが推進している住宅はPCものが多いです。<br /><br />もし、そんな家ばかりになったら…<br />日本の街はキラッキラのツルッツルに見えるでしょう。<br />メーカーは石油を使った工業製品で、どんな外観も表現します。<br />レンガ、コンクリート、木…<br />それらには自然素材の持つ深みのようなものはありません。<br />果たしてこんな街並みがいい環境と呼べるのでしょうか。<br /><br />建築歴史家・五十嵐太郎は「美しい都市・醜い都市」で、<br />景観という観点から無思考にPCに従う態度を批判しています。<br />その中の建築学科１年生(まだ何も分かってない)にとったアンケート、<br />美しい建築と醜い建築を写真に撮る。<br />というもので、美しいものには、いかにもつるっつるな建物、<br />醜いものには、廃墟や工場といった建物、<br />が撮られており、著者の価値観と逆だと言っていました。<br /><br />表象文化学者？田中純は「都市の詩学」で、<br />写真家・畠山直哉の廃墟や暗渠をポジティブに捉えた写真を紹介します。<br /><br />ー遙か地平線まで続くコンクリートのビルや道路が、すべてあの山々から掘り出した石灰石を原料としているなら、このビルや道路をすべてすりつぶし、その膨大な量の炭酸カルシウムを慎重に元の場所に返してやれば、最後のスプーン一杯で、以前の山の稜線は、ぴったりと復元されることになるだろう。<br />鉱山と都市はまるで写真のネガとポジのようなものだー<br /><br />畠山氏の視点は、PCにおいてはネガティブに捉えられそうな事を、<br />郷愁のような感情である種のポジティブさに変換しています。<br /><br />あーだこーだ言う広告・メディアに踊らされるんでなく、<br />本質を捉えようと自分なりの答えを見いだすのって、<br />素敵なことだと思うんですよね。<br /><br />ま、あんまり浮き世離れしても大変なので、<br />独り言として聞き流してしまった方が無難ですがね… ]]>
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<dc:date>2008-09-29T01:09:01+09:00</dc:date>
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<title>都市の自然1</title>
<description> 環境建築が流行している。ビルは屋上を始め、壁面までも緑化されるものが出来、自然を建築に取り込む手法の研究が盛んである。これはこのご時世当然の話で、何も間違ったことではない。すなわちポリティカル・コレクトネス（PC）なのである。逆を言えば、PCに乗っ取っているから、「環境問題を考えました」とすれば何をしても許されてしまう。こうして出来る風景は果たして都市に対して正の要素となっているのだろうか？必ずしもそ
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<![CDATA[ 環境建築が流行している。ビルは屋上を始め、壁面までも緑化されるものが出来、自然を建築に取り込む手法の研究が盛んである。これはこのご時世当然の話で、何も間違ったことではない。すなわちポリティカル・コレクトネス（PC）なのである。逆を言えば、PCに乗っ取っているから、「環境問題を考えました」とすれば何をしても許されてしまう。こうして出来る風景は果たして都市に対して正の要素となっているのだろうか？必ずしもそんな事はなく、奇をてらった作品は、逆に不自然な様相を呈している場合もある。<br /><br />それでは、東京のような様々なデザインの建物がぎっしりと立ち並ぶ風景の中での自然な風景とはどういったものだろう？東京の街は用途地域制度によってドライに景観がコントロールされているから、街によって自然な風景というものは異なる。それでは、用途地域制度によって出来る街並みが、ひとまず自然なボリュームであるとした上で分析を行えるのではないか。<br /> ]]>
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<dc:subject>濃い口</dc:subject>
<dc:date>2008-09-25T23:27:54+09:00</dc:date>
<dc:creator>studioMSK</dc:creator>
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<title>通りの透明性１</title>
<description> 普段、街を歩いているとき、急に視線が抜けた風景が強く印象に残っていたりする。その体験は、ガラス張りの透明な建物が立ち並ぶ地域よりも、むしろ不透明な建物の間に見える風景の方が、「溜め」があった分印象的である。この後者の透明性は、フェノメナルなものなので、コーリン・ロウの言う「虚の透明性」と言えるだろう(『マニエリスムと近代建築』より「透明性ー虚と実」)。ここで、通りにおける「虚の透明性」を評価するため
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<![CDATA[ 普段、街を歩いているとき、急に視線が抜けた風景が強く印象に残っていたりする。その体験は、ガラス張りの透明な建物が立ち並ぶ地域よりも、むしろ不透明な建物の間に見える風景の方が、「溜め」があった分印象的である。<br /><br />この後者の透明性は、フェノメナルなものなので、コーリン・ロウの言う「虚の透明性」と言えるだろう(『マニエリスムと近代建築』より「透明性ー虚と実」)。ここで、通りにおける「虚の透明性」を評価するために、「虚の透明度」なる概念を導入する。ガラス張りの連続した光景は、「虚の透明度」においては、不透明な建物が連続した光景と等価であり、透明度ゼロである。それでは、「虚の透明度」が高い状態とは一体どんな状態であろうか？僕は代官山の旧山手通りにその状態を見いだした。そこでは両側でリズミカルに視野が抜ける。そして抜けた視野の先には、その都度異なる光景が広がっている。ある時は小住宅群の屋根が支配的であり、建物に面した道路からは見られない屋根が見えたり、またある時は東急東横線線路の先に建つ超高層ビルが見えたりする。そんな視野の抜ける部分の間には「実の透明性」をもった建物と不透明な建物がバランス良く並んでおり、虚実の透明度の豊かな関係性によって、良好な街の質が実現されているのではないか？<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>濃い口</dc:subject>
<dc:date>2008-09-18T02:00:06+09:00</dc:date>
<dc:creator>studioMSK</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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